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ホームレス問題から人権概念を再検討しよう。

50代60代になって釜ヶ崎にたどり着く人々の経緯を概観すると、常用就職をしていた方がそこそこの比率を占め、いきなり日雇労働ということではなく、常用就職から、非正規労働へと進み、非正規労働が続かないもしくは、労働現場におけるトラブル等で続けられない事情により、炊き出し等の生きる術を求めて釜ヶ崎へたどり着く場合が多い。

 その間に家族との離別・疎遠化が進み単身化しているのである。この過程において、失職により収入を失い、住むところを維持できなくなり、結果として、住民票の住所と本人の不安定な居所が一致しなくなる。

 身一つを処す生活においては、住民票、税、社会保険などの個人を特定する必要がある拘束性が緩くなる。家族とのつながり・社会とのつながり、それは個人の特定と裏表のものであるが、そうしたつながりを諦めて生き方を考え、組み立ててこざるをえなかったわけだ。

 つながりを取り戻させ、社会参加させようとしても、諦めてこざるをえなかった過程を無視して、理念を述べ立てれれば、勢い押し付け「能書き」となる。もともと若いころから単身の建設日雇労働で身を立ててきた人はなおさらである。

ホームレス状態から生活保護へ進んでいくにあたり、国や自治体の側から見ると、生活保護を与えるとは、憲法が保障する人間らしく文化的な生活を認めるということである。

 もっとはっきりいえば一人の人間として認める、人間扱いをするということである。国や自治体からすれば人間として認めるということは、義務が生じるということであり、本人確認、住民票の設定、年金の確認、自立への努力などの義務が生じてくる。

ここに人権の問題が出てくる。人権とは何だろうか。路上での生活を続けていることをわたしたちは人権が剥奪されていると簡単に言う。人権が剥奪されているとは、野ざらしの犬や猫と同じだという意味である。では、野ざらしの状態から抜け出すために、誰もが生活保護を申請して、人権を得るのかというとそうはならない。

もしかして、私たちの人権感覚が、日本国憲法を含めて与えられる人権の概念であらかた占められてしまっていることが、路上に届く施策を滞らせているというべきかもしれない。

人というものは、仕事をするか、労働をするかは別として、生き続けるために活動をすることで、その他の人のではなくその人の生活スタイルをつくり、自身を確認できるものである。

 もしよりよい人権の擁護というものがあるとしたら、人それぞれの活動の範囲と規模を守り、保障するものであろう。その理念は、再チャレンジとは異なるものである。その活動が就職活動という限定された活動へとすげかえられるものではなく、また納得して行動に取り入れるもの以外にはノルマがないからだ。

よくホームレス生活者が「生活保護になったら、終わりや」と言うのは、生活保護を理解していないからではない。

 「することがなくなる」と言う人もいる。実に端的な表現である。

 人権が与えられ、守られた生活になるかもしれないが、人として「生きるハリや生きがいを失う」と当事者から言われていることについて、ホームレス支援における人権概念の拡張をもって答える必要がある。

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