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若年の住居喪失・不安定就労者への相談・支援の工夫

ちょっと前、ある研修で「若年の住居喪失・不安定就労者の相談の仕方」について話すように呼ばれることがありました。

主催者側はもう少しどんな方が相談に来られているのかという統計的なことや利用できる社会資源などを内容にと希望されていたようですが、私はぐーっと読み間違えて、お互い実際に出会っているときの相談のコツのような話にしてしまいました。

コツや工夫について考えるのはほんとに楽しいものですね。考えればいろいろ出てくるでしょうが、その時の内容をUPいたします。


【相談を始める】
出会えたことを感謝する
 ホームレス状態から相談に来られている場合はなかなか言いにくいですが、とりあえずは住むところがあるなど、若干でもゆとりがある方の場合は、「ようこそいらっしゃいました」と労いから始めるようにしています。

 出会いによって何か新しいことが始まる。私たちは、そのことを知っていて出会いを求めてでかけていくでしょう。相談のはじまりは、基本それとなんら変るところはありません。
 
名刺を渡す
 出会えたことがありがたいと感じるようになってから、相談に初めて来られた際、すぐに名刺を渡すようになりました。

 それはいろんな人がおられますが、名刺を渡したことで嫌がられたことはほとんどないと思います。むしろ「これからオレはどうなるんだろう」という緊張で張り詰めた表情が、ぱっと緩むことが多いと思います。

 ラポールの形成にこんな簡単な方法はないと思います。今はネームプレートを首からつるすのが流行りみたいですが、あれは、精神科医のメガネや髭みたいなもので、どちらかというと自分を守るためのものです。
 だから、区役所に行ったり、地域の社会資源に出かけたりする時に、私はネームプレートをつけます。いじめられないようにです。
 
 名刺に託して、まずは自分自身を差し出してしまうという形になるのでしょうね。また名刺交換というのは今の社会で、相互に自立した大人同士であるということの表現にもなっているので、「あなたのことをリスペクトしていますよ」という簡単なメッセージになるようです。
 
【初期の相談】
 
インテークという力技
 だいたい生活保護申請時にケースワーカーが訊かれるような項目に従って訊いていきます。わたしはこのところ聞き取り時間は短くなってきましたが、それでも2時間弱ぐらいはいろいろ訊ねているようです。相談に来られた方に力が残っているなぁと感じる場合は3時間ぐらいになってしまう時もあります。

 症状がある方の場合はいっぺんにすると相談に来られた方も訊く方も疲れてしまいますので、数日に分けて行なう場合もあります。

 CWさんよりも聞き取り時間が長いのは、CWさんより時間にゆとりがあることもありますが、調査の権限がないので、当面は聞き取りだけが根拠となること、その人が今に至ったことの理由を「ああ、知的障がいかな」「まじめな性格でいじめられたことがあり、うつの症状が出ちゃったからかな」「ギャンブルだなぁ」とか、さーっと理解することの一段下でどういう風な考えの組み立て(行動のパターン)になっているのかなぁということに接近しておきたいと思うからです。
 
 その方の人生をそんなふうに訊いていくと、あれ?ここの時期が抜けているなあとか、なぜこの部分の説明があいまいなのかなぁという、気づきが生じますが、これは、さらっともう一度訊いて進展がなければ、そのままにしておきます。たぶん全部わかればいいというものではなくて、全部わかったなぁなんて思っていると、まぁその時点で関係は崩れたか成立していないと思っておけばいいと思います。わからない部分があるから次もまた会いたいでしょう?

 細かく訊いているようで、ところどころ余白があるなぁという理解をしながらインテークをしていきます。その余白の部分が、伴走的支援の時に効いてくることになります。
 
 駆け出しの頃細か~く記した聞き取り票をCWさんに見てもらったところ、この聞き取りを書かれた方は、「ちょっとすごいです。病気かもしれません」みたいなことを言ってくれまして、あとになってみるとほんとにありがたかったです。
          
 ついこの間、こんなことがありました。就職活動のための自転車をよく借りにこられる方なんですが、借りられると中々返されないというようなことが続いて、職員が注意した。すると「わしも、仕事がみつからなくて、とても心がつらいんや。あんたみたいな若僧にわしは自分のことを全部隠さんと話したやろ。それをどう思ってるんや」みたいな話をされた。私は脇で聞いておりまして、「あたーっ、痛いところを突いてくるわー」と感じました。
 
 相談員というのは仕事でやってるものですから、ついつい「あなたが困っているから、こっちは訊いているんだよ」というスタンスになってします。それはそういう側面があるかもしれないが、相談に来ている方からしたらどうかということを考えてみる必要があります。
 
 たとえで言うと、外科手術の例がわかりやすいでしょうか。ちょっと調子の悪さが耐えられないレベルに入ったので、医者は好かないが、仕方なく病院に行く。すると医者は診察して、「あなたはたいへんな状態だ。今までどうして病院にかからなかったんだ、こりゃすぐ手術しないといかん。今から入院しなさい」とか言うわけです。そのとき、「たいしたことないのに、手術を勧めるなんてこの医者はきっとヤブだ!」なんてことで、出て行かれる方も一部いますが、たいていの方は、「医者がいうんならしょうがないのかなぁ」と、いやだけど、入院して手術を受けると思います。インテークというのは手術に匹敵するぐらいのことなんだという理解は有益なのではないかと思います。

 なぜなら、人生に起こった今までのことを訊いていく時には、「その時なんで会社をだまってやめちゃったの」とか「奥さんとどうして別れることになったの」とか、大事な部分を訊いてしまうわけです。人生を身体に例えるなら、見かけの部分(職歴とか表情や姿勢かな)だけではなく、肝臓や心臓といった中身に触れるわけです。そういった部分は普通これから仕事や生活を通じて何らかの形で一緒に生きていこうと判断した人でなければ、言わない部分ですよね。

 そこで一つ、私はインテークというのは、なるべくなら避けた方がよいという規範をこさえています。軽めのインテークで済むのなら、できるだけそうすべきです。たとえばHWでの相談や、予診の場合など。

 しかし、ホームレス状態から脱け出さないといけないという、緊急事態だから、細かいインテークをするわけです。いわば大手術をしているという感覚を持っていた方がいいと思います。

 相談の結果、生活保護を受けるなどしてかろうじて生活の安定にたどり着けた人は、時に「すべて相談員さんのおかげです。ほんとすみません」みたいなことを言う人も多いです。そんなことを言われると「いや~、私は何も。いっしょに努力した結果ですね」みたいなことを言います。

 たしかにそれはそうなんですが、相談に来られた方との関係では、それはどうもしっくりきません。命を助けてもらった医者に対するような感覚がどうしても残っている。
 
 逆に言うと下手なことをすると、(よくそういうことはあるわけですが)ものすごく恨まれるだろうことは想像にたえません。
 
 この1月に私は気胸でちょっと入院しまして、簡単な手術なので、5日ぐらいで退院してきました。医者には助けてもらったのですが、まだ痛みが残っていますので、「あの時もっとどうにかならんかったのかなぁ、はじめ研修医にさせてたけど、あれがあかんかったのとちゃうやろか?」など今でも時々うらんでおります。
 
 相談に来られた方は相談員を信頼してそんな大掛かりな作業を一緒にしてくれるわけですから、まずその意識を相談員がもっておくことは不可欠です。
だから、「この人の行き先を決定するにはこれとこれを取り揃えないといけないなぁ」という気持ちをもって、ぱっぱーとやってしまうと、二度と会うことがなくても、ものすごく恨まれているかもしれませんよ。

 若年の生活困窮者を伴走的に支援するということがあるので、初期支援が終わったあともずっと生活の向上や自立への道をいっしょに進んでいけるということがありますので、随分と助かることがあります。言わば急性期から予後をずっと診て、しまいには漢方を出すか出さないかで、「お話だけで今日はおしまい」みたないことができる環境にある医者がおもしろいように、よい仕事ができる素地があると思います。
 
ご近所づきあいに変わる支援(「自立」をどのように考えるか?)

 さて、はじめのインテークが終わると、今度は具体的な行動計画を立て、相談に来られた方と一緒に進んでいくことになります。

 お話をきかせてもらったことで、その方にはいろいろな問題があるなぁということがわかっている。内臓の疾患かもしれないし、依存症かもしれない、債務のことかもしれない。どんな問題であれ、「こうしようか」「こんな風にした方がいいかな」という話をするわけです。
 
 その時に注意しないといけないと思うのは、支援の終了というか自立の着地点をどう捉えておくかということです。
 
 若干遠慮のない話で申し訳ありませんが、相談員というのは、それが仕事だから相談しているわけですよね。だから、人それぞれではありますが、相談を受けられるキャパが存在しています。そこで、いろいろな支援をしても、なかなか効果が出てこず、法や社会的規範を逸脱したことをされる場合など、だんだん疲れてきて、「もういい加減にしてくれ」「給料分の仕事は終わったよ…」みたいなことを考えたりします。
 
 つまり、いつか手を離れて(自立して)別れの時が来ることを期待して仕事をしているわけです。そういうわけで、問題をわざわざ生み出してくるような方となかなか別れられないと、相談員の方のイライラ感や否定的な理解が伝わっていきますので、相談関係がうまくいかなくなっていきます。
 
 神田橋條治先生が『対話精神療法の初心者のために』という講演録の中で、米国式の対話精神療法で患者と治療者が出会い、治療契約を結び、治療が終了すると別れて無縁の関係になるというのが直輸入されすぎて、なかな か日本ではうまくいかないというようなことをおっしゃっておられます。

 むしろ今までも付き合いのあったご近所の人が、何かあって問題になり、診察に来られた。治療をして幸い回復したならば、治療関係は少ないかなくなるかもしれないけれど、近所づきあいは今までより深まる。おすそわけをもらったりとか。

 実際にはそうでない場合も多いわけですが、そんな心持でかかわるとうまくいきやすいというのです。

 私はホームレス状態の方、不安定就労の方の相談をする時にもあてはまるなぁと思っています。実際には知らない人だけれども、中学校の同級生で近所づきあいのある人ぐらいに考えておく。そうすると、まずはじめに相談員が維持している心理的な垣根を下げますので、丁寧な相談ができるようになります。そしてそれ以上に効果のあるのは、同級生ぐらいに考えておくとこちらのことも何かしら知っているわけですし、今後も付き合いは続く、となったら、ちょっと相談員という立場をかさにきて、きつくいいすぎたりするということに配慮がいきます。言い損ないがぐっと減るのではないでしょうか。

 ある人とだんだん相談関係が悪くなっていったとします。するとある日、その方が、あの時相談員さんはこういった、こういうふうにした、なのに全く役立たなかった、かえってストレスになったといった話しをどーっとしてくれることがあったりしますよね?それで相手が言っていることがすべて正しいというわけでは、もちろんないのですが、話したであろうトーンに、あらあら確かに心当たりがある。こういう相談関係の隔たりを若干避けることができそうです。
 
 ここは釜ヶ崎でして、入院施設のある病院とは少し違います。ご近所付き合いだという仮定ではなく、実際にご近所付き合いをしていくことが多い。伴走的支援を続けていくという意味でも結局はご近所になっていく。

 というわけで私はこのところほんとにご近所さんだと思って相談しています。相談員ってなんだろうということを考えるなら、町内の世話好きの人ぐらいの感覚。そう考えてみますと、町内ではギブばっかりの関係にはなかなかならない。ドブさらいのボランティアがあったら、みんな参加してもらいたい。一人でしたらたいへんでしょう。町内のお年寄りを集めてカラオケ大会をしようということになったら、確かあいつはオーディオファンだったから、マイクやスピーカーの設定を頼んでみようか、みたいな話になってきます。

 ですから、初期のインテークの時から「この人はどんな能力があるんだろう?」と期待をもって訊いていきます。仕事の能力も大事ですが、趣味や遊びの領域や生活の工夫なんかもなるべく聞くようにしています。

 そうして、野宿脱出時の忙しい時期が終わったあと、今度はこちらからお願いごとをします。漫画の得意な人にイラストを描いてもらったり、インドに行った経験のある方にイベント時のカレーをお願いしたり。それは相談員のできないことだから、自然と「ありがとう」という言葉がでますし、下手をすると「助けられるばかりで、ダメな自分」と思ってしまう傾向へすべり落ちていくところで、「自分の働きが認められた、お返しができた」という感覚をもっていただけることが多いようです。そうなりますと相談の場にどんよりと溜まってきます、重い空気がぱーっと晴れてきますね。
 
【伴走的支援の途中で】
 
支援者間の連携の功罪
 
 (生活保護受給者も含む)生活困窮状態にある方の支援に携わる人は、よく地域の社会資源との連携ということをよく言われます。私は連携には大賛成で、相談に来られている方に介護ヘルパーさんとか、障害者のための事業所なんかを紹介する時は、足のあるツボの絵なんか描いたりして、」足が多くあったほうが安定して中身をこぼしたりしないよねぇ」みたいな話をします。

 当事者の仕事や生活を支えようと支援者は相互に情報のやりとりを密にします。ただし、少しだけ、そこに落とし穴があります。

 その人にしてみたら、囲まれているような感じがするんですね。何をしてもお釈迦様の手の上というかんじになります。お釈迦様だったらそういう堅牢な能力を赦せるかもしれないが、相手がただの人だったらどうでしょうか?

 自分の周囲の人に相談すると、誰もが金太郎飴のように同じ対応をすると、「あれ?自分をはみごにして、すべて裏で話がつけれれている。もしやうまくだまされているのでは」みたいに感じる人もけっこういるということです。

 この情報共有と連携の落とし穴ということに、私はなかなか気付かなかったのですが、ある時ケース会議を頻繁に支援者の間で行っている方について、ケース会議の主催者からみると逸脱した行動を私がしてしまったことがあったときに、もちろんその主催者からは直接叱られたのですが、しばらくして、同じぐらい権威のある人と主催者さんがいっしょにおられる時に、「つらい立場もわかるのですが、そういう動きをする時にはかならず連絡をいれて、支援者みんなで決定しましょう」みたいなことを言われた時に、なんとも息苦しくいや~な気分になったのですが、その時はたと気付いたのです。

 もちろん叱られるような行動をした私が悪いのですが、「あ、この人たち、裏で話し合って、私をコントロールしようとしているな」という感覚はあんまり気持ちのいいものではありませんね。

 支援をしている時に、ああ、このまま行ったら生活が破綻してしまうなぁとか、法律に逆らってしまうなぁとか思うんですけど、どうしてもこちらの言っていることが伝わらないことがあります。そんな時、もっと権威のある人(たとえばCW)から言っていただいたらちょっとは効くんじゃないかなんてことを思って、お願いをしたりします。

 それは必要なことでもあるんですが、よくよく注意して実行しないといけません。

 できるならば、「このことはとっても大事なことだし、自分たちではなんとも解決できないからCWさんのところへ一緒にいって相談しよう」ぐらいのことを言って、CWさんにあんまり情報を渡さないまま出かけ、CWさんに情報を理解してもらうところから本人に入ってもらって進めた方が、より穏やかなかんじで、なるべくそうした方がいいと思います。

 時に連携している支援者同士で意見が違って調整したりしているみたいな様子を当事者にみてもらったほうがいいかもしれませんよ。

 情報の開示ということとも関係します。今の世の中では、「この薬を飲んでたら治るんだから黙って飲みなさい」なんてことは通らなくなってきましたよね。「この薬はこんな副作用があるし、こういう効き方をするので、こんな風に工夫して飲んでみて、また教えて」ということです。支援の仕方についても同じで、この支援や支援者にはこういう癖があるし、こういう働きをするのだなぁというところが少しオープンであった方がいいでしょう。相談員としては、当事者のことだけを考えるのではなく、いろんな支援者の方を含めた上で、いろいろ考えたり相談したりしているというスタンスです。
 
 このへんはコツの問題で、連携して情報を共有しておくのがあまりよくないという話ではありません。連携ということで突っ走りすぎないように、足したり引いたり、ほどよいぐらいでやっていきます。
 
金銭の預かりの工夫
 
 依存症の問題があって野宿に至っている人の場合は、アディクションとの関係でお金の使い方がおかしくなっているわけですので、治療と不可分のものとして、金銭の預かりを支援の条件とする場合が多いです。

 知的障がいがあって計算が苦手とかの問題ではなくて、そもそもソロバンをはじいてみるという習慣がない人がけっこういます。じゃ、その人は考えないでお金の話をしているのかというとそうでもなくて、なにやら直感で「今日はいくらほしい」とか言いますので、あらためて電卓をおいて、計画をしてみます。紙に書いてちゃんと計算する。あるいは、計算してもらいます。

 計算した結果、はじめに本人が言っていた金額とあまりかわらなかったりします。しかし、計算をしなくて直感的に言っていたときよりは、ずっとお金に対する関心度が高まり、安心感が強くなっている印象があります。

 そういうようすを見ていると、ただ「お金の面に配慮しよう、生活を成り立たせるためお金を大事にしよう、それが自立の基本だね」という考え方とはすこし違う様相があるような気がします。どちらかというとからだや健康に対する配慮、自分に対する配慮がなされているかいないかという問題に近い気がします。

 たとえば、血圧のことを考えてみるといいですね。「今日は何だかぼーっとするし耳鳴りがあるから血圧が高いに違いない、塩分の多い食事は控えた方がいいな」とか直感的に感じたとしてもそのことで養生のためにコントロールすることは難しいです。そこではやっぱり血圧を実際に機会で測定してみることを勧めますよね。数値にして具体的にわかるものにする。定期的につけてもらって、季節の変化やタバコの量などを考え合わせていけるようになると、からだや健康に配慮していってもらえることになるでしょう。

 多少無駄遣いすることがあってもいいのですが、その結果、どんな影響があるのか、具体的に理解してもらうことが基本なのではないかと思います。
 
知的障がいをお持ちの方で、上手にお金の管理ができない、そういう方は、生活保護の申請時から金銭の預かりが必要だね、とずっと織り込んでやっていくので、受け入れてもらいやすいのですが、居宅保護にはすでになっていて、どうもお金のコントロールができていないという方の場合、お金を預かっていっしょに計画を立てていくというコースにはなかなか乗ってきてくれないものです。今まで結構だまされてきた方が多いですからね。NPO法人だかなんだか言うのは信じられないでしょう。

 そんな時どうするかなんですが、こういうときこそサラリーマンの営業の感覚をもっておくといいかな、と思います。

 営業で企業を回ったりすると、はじめはなかなか品物を取ってくれません。商品のすばらしさをどれだけ訴えたところで、最初に喰いついていただけなければ、あとは鬱陶しがられるでしょう。そんな時は、くどくど時間を長くとるのはやめます。そのかわりちょくちょく行く。行っては、「どっかすみっこでもあいてませんか~」「これ今だけちょっと安いんですよ~」とか言っては、すぐ帰る。これをくり返していると、商品はとってくれないんですが、相手がアイミツを取るのに情報をほしがったり、ちょこちょこっと便宜を求めてくることがあるので、いやがらずぱっぱーとそろえておく。そうすると人間関係ができてきちゃうので、何かの弾みで、「あんたんところに頼もうか~」ということになるでしょう。あるいは期間限定でちょっとだけ品物をおいてもらって試してもらうなんてことをします。そこで納品の無理が多少きいたり、掃除が丁寧だったり、ポップがきれいだったりすると、悪い印象ができないので、次も何かあるとあそこに頼もうかということになるでしょう。

 ちょうどそれと同じやり方をします。収入認定の仕組み等が理解できなくて、急に返還金を請求されたので、「生活保護はいいわ、と思ってアパート出てきた」なんていう相談があった時は、「じゃ、生活の建て直しのために応援するので、しばらくお金の預かりをしましょう」と話して、計画をたて何ヵ月後にはまたご自身でお金を持ちましょうという約束をします。それで、その間にお金以外でもいろいろと困っていることがあれば一緒にやってみて、解決していく。ほんで首尾よくお金が軌道にのれば、約束の終了ということで預かったお金や通帳を返してしまいます。するとまず約束を守る組織であると思ってくれますね。それでお金を預かっていた時に特に嫌な対応がなければ、次困った時も、あそこに相談行こうと思いますよね。そんなことをしばらくくりかえしていると、何か利殖をするわけではありませんが、証券会社の担当にお金を預けにくるお客様のように、お金を預けますという話になってくるようです。

 アディクションがある場合はそうはいかないのですが。
 
壁をぶち破れ!
 
 いわゆる問題ケース、人に暴力をふるったり、壁を破ったり、リストカットしたり、飛び降りたり、盗んだりという場合もいろいろなケースがあると思います。理想論ではなかなかうまくいかないでしょう。

 境界例パーソナリティ障害とか言われたりするような難しさを持つ方ではないのですが、軽い知的障がいをお持ちの方で、ある日「壁に穴あけたわ」と言ってこられたので、部屋を見に行きました。するとほんとにドッシャッとボードが砕けていて、ケイテンがむき出しになり、コンクリがすかっと見えている。これは「バットかなんかでどついたの?」と訊くとどうも素手らしい。たいへんな破壊力ですね。彼とはケンカしないでおこうと思いました。

 壁に穴をあけると簡単にいいますが、これは余程のことです。ガス爆発を起こす直前のように相当にストレスが溜まり、出口がないということでなければ、そんな行動はしないものです。自分が痛いですしね。

 そういう問題行動については、基本は次のように考えています。「もしもその行動をしなかったとしたら、もっと危険な行動か状態に至ったのだろう。周囲から見ているとおかしな行動でも、本人にとってはそれをすることできっと得をしていることがあるのだろう」と。

 そこで、相談員の側がまずそういった行動を起こす、ストレス、症状、行動と考えのパターンを認めることからはじめます。「壁に穴をあけることはいけないことです、そんな風にしていると部屋を追い出されますよ」ということを説得してもまず本人には思いは届かないでしょう。

 「そういうことで、悩んでいたんだ。それはたいへんだったね。壁に穴をあけることで、もしかするとそこにいた人を殴らなくてすんだのかな」という感じで話を進めた方がうまくいくと思います。

 もうちょっと進むと、コンビニのドアをストレスで割りそうになったというようなことを言ってくれた人がいましたが、「んー、そこまでストレスが溜まってたいへんなんだから、ガラスぐらいちょっと割ってみたら?まぁ、もちろん後で請求されるだろうけど、そのまま我慢しているよりはいいんじゃない?」とか答えている場合もあります。「するといやーやっぱやめときます」という風に答えてくれるのでほっとします。

 多分、ぎゅーっと溜まった感情やストレスで表現できていないものを、破壊を前提にして、とりあえず言語化するとそれだけでかなりテンションは下がるのではないかと思います。勉強に馴染んでいる人には、ノートに書いてきてもらったりします。あとSSTなんかも活用しています。
 
 あと問題例とされている人、時に境界例パーソナリティ障害と診断がついている人の中には、サバイバーの人たちが多く含まれているということを忘れてはいけません。男性にも性的虐待を受けた方がいます。虐待・ネグレクト、事故災害のPTSD後を生きる方に加えて、児童養護施設の経験ということも含めていいかもしれません。幅はありますけれど、彼らに対する時の、基本的な考え方は、「今生きていることに、すでにその人の力と価値がある」ということです。

 社会規範からは、迷惑で困った行動に見えても、それらの行動をいろいろと組み合わせて工夫してなんとか生きようとしているわけです。そこを見失うと応援がうまくいく可能性はずっと低くなるでしょう。
 
【仕事探しをはじめる】
 野宿状態から脱して、生活が安定すると、若年層ですから、仕事をしていく段階に入っていきます。その際のあせり、気の重さ。そういうことについて考えてみたいと思います。

 考えて見ますと、野宿状態になり生活保護を受給するに至るまでに、相談に来られる方は職場の中でさまざまな苦労を重ねてこられています。流れ作業についていけないなど、身体能力的なものもあるかもしれませんし、人間関係で悪い立場に陥りやすい行動のパターンをもっている、あるいは勤める先が次々と倒産したりブラックだったりというようなことで、つらい経験をお持ちなわけです。

 そのため、いざ再就職をめざすということになると、今度もうまくいかないんじゃないかとネガティブに考えてしまっても当たり前ではないでしょうか。

 ところが相談員というのはその気持ちにあんまり同情はしないんですね。なぜ同情しないのかというと、相談員というのは、現に仕事をしているからです。仕事をしているため「仕事ぐらいできるやろ」とどこかで考えている。あるいは「仕事してる私の方がしんどいわ」ぐらい思っているかも。そんなわけで、仕事探しで逡巡している人たちをみてだんだんイライラしてきます。

 わたしはこう考えることにしています。相談に来られている方が一度野宿状態に陥ったあと、就職をめざすということは、ちょうど私たちが、起業に一度失敗して、しばらくサラリーマンをして、さあもう一回起業しようかという時の悩みに実は近いのではないかと。一度失敗していたら、それは慎重になるでしょうし、やっぱりやめようかな、サラリーマン生活を続けようかなとか非常に悩むのは当たり前かと思いますが、どうでしょうか。そういうレベルの悩みなのかなと仮定しておくと、丁寧な支援ができるのではないかと思います。


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援助職のホウレンソウ。

報告・連絡・相談とは、勤めを始めるとすぐに教わる仕事の基本ですね。
 
数年前サラリーマンをしていた時、私は上司からこのホウレンソウについて「ドリブルが多くてパスが少ない」と注意されていました。情報を抱えてしまってオープンにしないためチームでの対応が遅れて結果会社に不利益をもたらしているという指摘でした。

そこで、行動を変えるよう努め、何かの情報が来たら、自分なりの考えや作戦があっても、情報の共有を優先するようになりました。

法人にもいろいろあるもので、転職すると、ホウレンソウが疎まれるところもあったりするからなかなか難しいですね。

私の転職の経験では、正確にいうとホウレンソウが疎まれているのではないのですが、必要とされるホウレンソウの基準がはっきりしない。上席の者が、ある時はホウレンソウをうっとうしがり「そんなことは部門に任せている」と言うかと思うと、ほぼ同質の問題でも細かな報告を求めてきたりします。部門内で重要な事案であると考えて相談を持ちかけても、初めから嫌そうな態度で話の内容を聞いてくれないなんてことも。そんな上司が「連携を強める」と会議の時に常套句を言っているのを聞くと、そろそろ次を考えた方がいいかな…と思うわけです(笑)。

閑話休題。

援助職にとって情報の共有は仕事においてたいへん大事な部分を占めていますが、この頃、情報の共有の仕方について少し気付いたことがありましたので、記しておきます。

自傷行為や自殺企図がある場合、至急とりかからなければならないのは、その人を支える社会資源を調整して、できるだけ多くの方や組織に関わってもらい、チームとして取り組むことです。いったんチームができあがるとそれを構成しているもの同士で頻繁な連絡が行われるようになります。

トラブルが起こった時、当事者も含めて連絡は密になっていくわけですが、トラブルの全体像を捉えることができたと思えるようになるまでには、一定の時間をかけて、チームを構成する方から情報をとっていかないといけません。迅速な対応がいる局面でも、あとからあとから新しい情報が上がってくるということがあります。

まぁ、集団や社会というものはそういうものなわけですけれど、人を相手にして、そこに生命の問題や、関係が活きるか衰えるかという問題があるときには、できるだけ早く自分なりの全体像を描きたいと思うのではないでしょうか。

これをある意味阻むのが、私も含めて、「もしや今回のトラブルに至った原因のひとつが自分のした対応ではないか」と心のどこかで考えているため、無意識に、あるいは半ば意識しながら、当事者とのやりとりの一部を除外した情報を共有しようとすることです。

もう1つ。チームというのは協力と信頼関係があってなりたちますが、意欲ある援助職であるほど、相互にライバルでもあるということです。つまり、ホウレンソウをしているときに相手が自分の応対よりも優れて見える考え方や方法をとっていたり、おもしろい社会資源とのつながりを持っていたりすると、自分がとった不十分な対応や貧弱なつながりを、ぼやかしてしまうということがあります。

もしもチームに参加している人の相当数が少しずつそのように情報を公開しないとすると、支援の仕方の適切さが、ツボに入らなくなっていくリスクがでてきますね。

また、この前、ひとつ気付いたことがありました。

援助職なら医師の意見をうかがいにいくことがあると思います。医師の意見を聞いて、職場にかえって、情報を同僚と共有するわけですが、その際、「先生はAと言っていたよ」と伝えるのではないでしょうか。

忙しい現場では、「先生の意見はA」で動いていくわけですが、実際には、この判断には隠れたメッセージがあります。すなわち医師に援助職が、「私はAではないかと思いますが、先生いかがでしょうか」と問うた答えとして「Aでいいと思うよ」と医師が言ったという過程が隠れています。

通常援助職の方と医師の方の意見が異なった場合は、「私はBと先生に伝えたけれど、先生はAと言われた」という風に情報を共有するのではないかと思います。「私はBだったが、先生はA」という情報にはほぼ隠されたものがありません。

「私はAと言ったところ、先生はAでいこうと言われた」ならば、もし、「私がCと言ったら、先生はD、場合によってはEもありかなとおっしゃられた」ということもありえるわけです。

「A」ということを伝えるのではなく「A→A」ということを伝えると、それ以外の可能性について開かれた情報の共有がはじまります。

ここには大切な問題があります。同僚であるスタッフが「A」と同じ意見ではなく、異なる意見もしくは「A´」の意見をもっていた場合、医師から「A」という答えをもらったのは医師の意見を訊きにいったスタッフの情報の操作また誘導の結果ではないかという推測を可能にしてしまうということです。

チームを組んでいても権威や責任には偏りがあるわけですから、より権威と責任のある存在を借りて自分の意見を正当化することが、あまり意識されず行われてしまうと、次第に連携に罅が入って行くのではないでしょうか。

情報の共有について2点あげましたが、私の考えは、支援をするチームを作る時、あるいは、当事者を含めて生活と社会関係を安定させていくためのユニットを作った時には、内在している権威や責任の変化についての情報を指標的なものであれオープンにする努力をしていかないといけないということです。

当事者に対する援助職の共依存を防ぐため、チームで事に当たるのがのぞましいということがよく言われますが、当事者と支援者という1対1関係で捉えるだけでなく、ユニット全体の動きを話し合えるように常に情報の開示を進めることが重要ではないでしょうか。

ユニットに関わる人それぞれを「人として大切にする」ということ(場に働く考え方の基準を一元化する)と、それぞれが持っている弱さも含めて心と気持ちの動きを開かれたものにすることから、始めていきたいものですね。


自殺の危険因子を、ホームレス状態にある方、その状態から何らかの支援をうけて現在生活保護を受けている方の場合で考える。

厚生労働省が配布している「職場における自殺の予防と対応」の中に「自殺の危険因子」の記載があります。
【出典:高橋祥友「新訂増補 自殺の危険:臨床的評価と危機介入」(金剛出版、2006)】
 
以下転載いたします。
 
①自殺未遂歴 
自殺未遂はもっとも重要な危険因子(自殺未遂の状況、方法、意図、周囲からの反応などを検討)
 
②精神障害の既往
気分障害(うつ病)、統合失調症、パーソナリティ障害、アルコール依存症、薬物乱用
 
③サポートの不足
未婚、離婚、配偶者との死別、職場での孤立
 
④性別
自殺既遂者:男>女  自殺未遂者:女>男
 
⑤年齢
年齢が高くなるとともに自殺率も上昇
 
⑥喪失体験
経済的損失、地位の失墜、病気や怪我、業績不振、予想外の失敗
 
⑦性格
未熟・依存的、衝動的、極端な完全主義、孤立・抑うつ的、反社会的
 
⑧他者の死の影響
精神的に重要なつながりのあった人が突然不幸な形で死亡
 
⑨事故傾性
事故を防ぐのに必要な措置を不必要にも取らない。慢性疾患への予防や医学的な助言を無視。
 
⑩児童虐待
小児期の心理的・身体的・性的虐待
 
相談に来られている方の自殺の危険の大きさを考える時、よく言われるのは、①の自殺未遂歴、②の精神障害の既往ですが、③から⑩の内容にもよく注意を払いたいものです。
 
ホームレス状態にある方、その状態から何らかの支援をうけて現在生活保護を受けている方の場合で考えてみたいと思います。
 
「③サポートの不足」は大きな問題です。家族による支援が途切れている場合がほとんどです。家族との関係が続いていても、本人を責めるような関係になっている(少なくとも本人にはそのように感じられている)こともよく見られます。
支援機関につながっていても、その機関の数や職員数が少ないために十分な相談時間を得ることができない状態です。
また仕事をできる年齢でなくなっているか、仕事につけない状態である方が多いため、職場での関係にそもそも入れていません。また就労支援事業がいろいろと行われている中でそういったプログラム内での孤立も、広い意味で「職場での孤立」の中に捉えることができるでしょう。
 
「⑧他者の死の影響」については相談の際比較的よく遭遇します。その理由としては、ホームレス状態にある方や、そこから生活保護になっている方の人間関係・友人関係が、本人と同じような生い立ち、状況にあることが多く、もともと自殺や事故ということについてハイリスクな集まりの中にあるということでしょう。アルコールや薬物の依存症の方、自傷行為をする方の場合もそのつながりが存在します。相談に来られる時は、過量の飲酒や抑うつ状態が見られることが多いです。
 
「⑨事故傾性」も重要な変化です。それまで生活習慣病の治療を受け、服薬を続け、一定快方に向かっていた方が、受診から遠ざかったり、服薬時に「もう薬はええわ」と伝えてきたりします。自分の体や心に向き合ってきた方が、何かのきっかけで投げやりになっていて、その中には自殺への因子も含まれています。お金の使い方についても、急激に貯金がなくなったりする時は自殺への傾向を検討すべきでしょう。
逆に「日常生活でこういうことに気をつけています」という話がある時は、その内容が相談員からみていかに些細なこと(あるいは余計なこと)に見えたとしても、自分自身に配慮していく道の入り口に来ているのであり、見逃さず支持していくべきでしょう。
 
「⑩児童虐待」
虐待を受けた方に自殺への傾向が強いということは、その領域で活動されている方や関心を持たれている方には概ね理解されていると思いますが、「自殺への危険因子」のなかに項目としてしっかり入っていることに注意すべきです。
虐待を受けていた方の支援をする場合に、その方が援助職の方との間で示す問題行動の多用さと強さに目が行き過ぎてしまって、自殺の部分を忘れないように。自殺に踏み切らない方と踏み切る方では踏み切らない方の方が多いけれども、だからといって「周囲に依存しようとしているだけで、実際には自殺しない」と支援関係を終了するのは善い支援といえません。
傾聴と安全の確保→依存から離れていくプログラム(エンパワメント)という、いつでも迎え入れてくれる安定した支援が得られる場所を社会の中に確保していく必要があるでしょう。

笠原嘉先生による小精神療法8つの定式

精神科医向けでありますが、 相談職の方にとっても参考になると思いますので、抜粋します。

(a)病人が言語的非言語的に自分を表現できるよう配慮する。

(b)基本的には非指示的(non-directive)な態度を持し、病人の心境や苦悩を「そのまま」受容し了解する努力を惜しまない。

(c)病人と協力して繰り返し問題点を整理し、彼に内的世界の再構成をうながす。しかし、治療者の人生観や価値観を押しつけない範囲で、必要に応じて日常生活上での指示、激励、医学的啓蒙を行う。

(d)治療者と病人との感情転移現象につねに留意する。

(e)深層への介入をできるだけ少なくする。

(f)症状の陽性面のうしろにかくされている陰性面(たとえば心的疲労)に留意し、その面での悪条件をできるだけ少なくする。

(g)必要とあらば神経症と思われる状態に対しても薬物の使用を躊躇しない。

(h)短期の奏功を期待せず、変化に必要な時間を十分にとる。

笠原嘉『精神科における予診・初診・初期治療』P149

これらの組み合わせから相談の時間を作れた場合は、うまくいっているという印象がありますね。まぁそういう風に書かれているのを発見するとうれしくなって「そのとおり!」と思ってしまうからかもしれませんが…(笑)。相談がうまくいかなくて、苦しいとき、この一項目でも思い出すことができれば、悪い循環へはまることをさけられるかもしれませんね。




ある棚卸し

 なだ いなだ先生が書いた本に『アルコール中毒』〈改訂版〉という本がある。1966年に出版されている。当時日本におけるアルコール依存症の治療の革新期であって、精神科病棟における治療や自助組織など現在社会化されている方法や連携はこの時期に始まっている。

そのためこの本は時代を画した著作であるが、現在必要とされている知識という視点からみれば、読んでいて少し物足りないかもしれない。それだけ、アルコール依存症に対する認識が高まり社会資源の整備が行なわれてきたことの証でもある。

この本がなぜ部屋にあるのか忘れてしまったまま、積読して10年近くたってしまった。

昨年、現代思想12月『新しい依存症のかたち』でなだ いなだ先生が執筆されていたので、思い出して取り出して読んだ。

ふと見ると、ノートの切れ端のようなものが本に挟んである。ふだん文章を書かない人が思いを込めたとわかるボールペン書き。

「松木様へ

私は一生つづく病気アル中になってしまいました。と言うより10幾年か前のように思います。前に松本さんが、病院のミーティングや断酒会、自助会の話を聞きたいと言っていたので、病院で読んだ本の中で、わたしにわいちばん読みやすかった本をおかしします。松本さんとわたしでわ頭のていどがちがうので、やさしすぎるかもしれませんが読んで下さい。
なお私は低頭なのですぐわすれます。一ヶ月に一回くらい読みなおして、私わアル中である一生酒はのめないのだということを頭に、たたきこみたいので読んだらかえしてくれますように。

なお入院中の見まい、その他いろいろいつもおせわになっていますありがとうございます。こんごともよろしくおねがいします

いつも10時から、13時半ごろまで病院に行ってますのでへやにいるのわ休日ぐらいです。また、夜は、断酒会、AAなどに行く時がありますので、夜の10時ころから朝の7時ごろまでわいると思います。」

ここまで大切な手紙をいただいていながら、当時の私は、この本を返していない。

またこの手紙を書いてくれた方がどんな方だったのか、今はまったく憶えていない。

文から想像すると小杉クリニックの毎日通院に行き始めたようす、居宅保護を受けているだろうことが窺える。

当時の私は正直福祉に関心がなかった。日雇・野宿労働者の「働いて自力で生活したい」との思いを受けて労働運動に飛び込んでいた。

だが、私自身アディクション的な生き方に囚われていたために、そうした活動も途中で無責任に放り出してしまった。今そのころの自分を振り返ってみても押し付けがましさと他罰傾向と強がりの中でもがいていたにすぎないと思う。

月日がたち、なぜかいま釜ヶ崎で福祉の仕事に拾われている。社会へのプレゼンという点から一番遠いから苦手と思っていた相談職だ。

なぜだろう。

福祉の仕事をしていても、私の内側に感じる苦しみからはいつも逃れられない。また具体的な行動と新しい取り組みで社会を変えていく活動も継続したいと思っている。だが、それらを取り混ぜたこの道のりを歩めているのはなぜだろう。

わたしがもはや忘れてしまった人々、釜ヶ崎の人々、野宿生活の人たちが、出会いの中で少しづつこの道を指し示してくれたからだ。わたしは気づかず、まるでこれが自分だけの辛さであるように考えたまま、日々を送ってしまっている。

本を返せなくてごめんなさい。この場でありがとうと伝えたいと思います。

仲間の心配りに感謝します。

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